賤ヶ岳古戦場より玄蕃尾城へ

賤ヶ岳の古戦場跡をランで走った。

6時台の電車に乗り9時少し前に木ノ本駅に到着し、賤ヶ岳リフトへ走る。

にわかには信じられないが、秀吉軍は岐阜からの52キロの道を5時間で大返ししたといわれる。

秀吉軍が駈け上ったのは黒田家発祥ともいわれる黒田観音寺の裏からだというから大岩山へ上ったのだろう。

一番の激戦地は中川清秀が討たれた大岩山。

高山右近羽柴秀長の陣へ逃げ、黒田孝高隊も壊滅寸前であったという。大岩山の合戦ともいうべきなのかもしれない。

賤ヶ岳砦は秀吉軍の守将桑山重晴が盛政への明け渡しを引き延ばし、結果丹羽長秀の援軍と合流して佐久間盛政を余呉湖へ追い落とした。

秀吉軍が勝ったのが賤ヶ岳だった。

 

リフト脇から賤ヶ岳へ上る。なかなかの谷だが九十九折れになっていて傾斜はそれほどでもない。

山頂からの展望は見事。琵琶湖が美しく正面を向くと余呉湖も手に取るように見える。向かって左手の余呉湖畔から佐久間軍は中入りして、最終的には追い落とされた。

尾根を北に進む。

中川清秀の首を洗ったと伝わる涸れ果てた首洗いの池を越えて大岩山へ。そこにある清秀の墓は江戸期に大名となった中川家が造ったもの。

さらに尾根を進んでを余呉駅方面へ下る。黒田孝高の陣地跡は発見できなかったがこの道中のいずれかにあったはずだ。ここが持ち堪えたことによって秀吉の大返しが功を奏した。

 

余呉からはひたすらに北上。余呉湖東岸の小さな平野部が本来の決戦地であるべき場所であったのだろう。

毛受兄弟は尾張春日井の人。勝家に仕え、彼を逃がすために殿軍となって討死した。

彼らの墓から行市山を目指して上る。この上りがとても長い。

金森長近の林谷山砦。前田利家の別所山砦。山頂の佐久間盛政の行市山砦と上っていく。

 

佐久間盛政の撤退は損害を出しながらもそれなりに上手くいっていたのだが、前田利家が別所山砦より撤退したことで孤立することになる。結果的にそれが柴田軍全体の崩壊につながった。

それにしてもこれほどまでの高所に砦をつくったというのは驚きではある。

 

山頂には雪。

これより往時の軍道であった尾根道を走って玄蕃尾城址に向かう。

はじめは藪漕ぎを強いられたが、それなりにきれいな道となった。そこここに人為的に造ったであろうくぼみのようなものがあり伝令所のような雰囲気があった。

 

この尾根も長いのだが突然道が落ち込み刀根坂の天辺であるの久々坂峠に出る。

この道は古代より若狭と近江をつなぐ重要路である。朝倉義景姉川で敗北したあとにこの道を逃げた。

その要衝を押さえるのが玄蕃尾城。土塁のみの質素な造りではあるが連結した虎口や深い堀切。大きな郭も備えた実戦的な城跡だった。

刀根坂を近江側へ下り、旧北国街道を南へ走る。

そして木之本駅着。合計で33キロ走った。

寒かったが缶ビールがとても美味しかった。