八十里越

継之助の担架は八十里越を越えて行く。左足はすでに腐敗し臭気を放った。それにしてもこの長大さは、どうであろう。樹海は眼下にあり、道は天空に連なってゆく。

「八十里こしぬけ武士の越す峠」と継之助はわが姿を自嘲した。

司馬遼太郎「峠」より

 

八十里越は長岡より河井継之助が敗走したみちである。

幕末の内乱で最も熾烈であったともいわれる北越戦争。長岡藩家老であり軍事総督でもあった河井継之助は八丁沖の渡渉作戦で長岡城を奪還するも直後に左足を撃たれ、城は再び官軍に奪われる。

継之助は担架に乗せられながら八十里越を越えて会津へ向かうも只見の塩沢村において落命する。

一里が十里にも感じられるほどの厳しい道であり、会津と越後を結ぶ「塩の道」として明治までは重要な街道であったが、南の六十里越、北の磐越西線の整備により廃れた。

 

継之助の終焉の地はダム工事によって水底へ沈んだが、建物は河井継之助記念館の中に移築されている。

その終焉の風景に彼の凄味を感じる。

 

「寅や」と、外山脩造(寅太)にいったのも、そのときであった。

「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える」

司馬遼太郎「峠」より

 

継之助は自分自身である武士をもはやなくなるべき遺物であると観念している。彼に商人の道を薦められた外山脩造は日本銀行設立に携わり、関西有数の財界人となる。阪神タイガースは彼の幼名にちなんでいるといわれる。

八十里越と言う地形もさることながら、武士という人間の結晶体は幕末という時代に完成し、その後はなにごともなかったかのように消えてなくなっていった。それは峠を上り、下っていくことに似ている。

 

「一忍以て百勇を支うべし。一静以て百動を制すべし」

継之助の書である。長岡藩が目指した姿はまさしくこれだったのだろう。

ただ、結果はそうはならなかった。

北越戦争は民衆にも塗炭の苦しみをあたえ、維新後に継之助の墓を鞭打つ者があとを絶たなかったという。

少し極端かもしれないが、彼がいなければ山本五十六も世に出ず長岡の空襲もなかったかもしれない。ただ彼が不世出の英雄であったことは間違いがない。

司馬遼太郎は継之助を題材にした短編をこう締めくくっている。

「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」

司馬遼太郎「英雄児」より

 

「山水相応蒼龍窟」

河井継之助記念館にある司馬遼太郎揮毫の書である。記念館の駐車場から望む只見川の青い水面はまさに蒼龍が眠るにふさわしい情景である。

夏の暑い盛りの空と川はとても鮮やかに青かった。