韓非子
つらつらと項羽と劉邦を読んでいて諸子百家。とくに法家についてよくわかっていなかったので韓非子の入門本の頁をめくってみた。
春秋戦国時代に諸子百家とよばれる学者・思想家が雲のように群がり出てくる。
後世の司馬談はそれを陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家と六家に分類した。
秦帝国というものは法家思想による統治をわずかな期間で地方のすみずみにまで浸透させた。これは李斯によるところが大きい。
史記にはその李斯をして韓非子には及ばないと自認していたとある。
本名は韓非。尊称は韓子であるべきだが、宋代に同名の大詩人がおりフルネームに尊称である子をつけ韓非子と呼ばれる。
秦という大国に接する韓はそれこそ吹けば飛ぶような存在であり、事実上秦の属国ともいえる状態であった。この危機感が韓非子を学問に向かわせる。
彼は儒家である荀子に学ぶ。基本的な思想は同じであるがおおまかにいうと荀子は人の徳化によって解決を図るが、韓非子は法の統制によっての解決を目指している。出口だけが違うのである。
孔子は人間には基本的に善と悪が内包されていてその善の部分を伸ばすことを目指す。荀子はそれに比すると性悪説を唱え道徳による徳化を目指す。韓非子は人間の本性を悪ととらえていないが、欲望のままに動くのが人間本来の姿と規程している。それを「利」という概念で説明しようとしている。なにが善なのかは誰にとっての善なのかであり、それは誰にとっての利であるかということである。道徳や倫理より根源的なところで人の行動を決めているのは利であるとしている。この「利」の人間観というところは特に備内篇に著されている。
彼には吃音の癖があったために喋ることについては苦手としていたが、書を著すことについては優れていた。
韓の国では重用されなかったため、彼は自身の智をまとめあげたものを著す。
それを読んだ秦王政は彼に深く敬服していたという。
秦は韓の完全な併合を指示し、その弁明のために韓非子が秦に派遣される。
その際、秦王政は韓非子を登用しようとしたが、李斯は自分の地位が韓非子にとって代わられるのを危惧し讒言して牢に繋がれる。
韓非子は李斯に渡された毒をあおって獄中死する。
説難を著したにもかかわらず秦王を説きに行ったことで死んでしまう。史記において司馬遷はそれを悲しんでいる。
内部崩壊というところもあるが、結局のところ流民の親玉ともいうべき項羽と劉邦たちが儒家や老荘の徒をブレーンとして法家主義を倒すという構図となり、韓非子が著し李斯が実践した法家主義は崩壊する。
この時代に興った多様な思想や学問の土台ともいえる知への欲求のようなものはこの後次第に衰弱してゆく。
その後の中国人とは別の民族ではないのかとも思えてしまう。