六甲全山縦走

六甲全山縦走。

公称56km。関西屈指の山岳縦走路である。

この道は「孤高の人加藤文太郎が歩いた道でもある。

もちろん彼が歩いた頃とは様変わりしているのではあるがともかくも歩いてみた。

 

午前7時半頃に塩屋の駅より歩き始める。

縦走大会なども行われていて、その場合は人数の関係もあって須磨浦公園からスタートするのがいまは一般的なようだ。

ただ、せっかくなので文太郎と同じように塩屋から山に入りたかった。

 

ひとつめの山は旗振山。ここの山頂が旧国分でいう播磨と摂津の境界であった。

これよりいくつもの山を越える。

一の谷より鵯越へ。

日本国内の合戦において騎兵戦術を活かしたものは一の谷と桶狭間に二例だけのように思う。

それにしても800年前の谷の多いこの地を源氏の騎馬隊が果たして駆け抜けることができたのだろうか。

 

鵯越よりは菊水山の上り。かなりの急傾斜で息が切れる。

菊水山昭和10年楠木正成公600年祭を行ったときにこの山の松で家紋(菊水)をつくったことが由来。

正成は桜井の別れの後ここよりすぐ東方の湊川に陣を敷き圧倒的な足利軍を迎えうち落命する。

 

有馬街道の吊橋を渡って鍋蓋山を上る。菊水の上りにくらべればどうということはない。

そのまま再度山方面へ。

このあたりは三宮の裏山エリアなので見慣れた風景となる。市が原へ下り摩耶山へ稲妻坂をのぼる。

地図を見る限りでは稲妻坂は尾根道で天狗坂は谷道のようだ。いずれも修験者が駈け上った道である。

 

摩耶山は釈迦のご母堂である摩耶夫人を祀った山である。

ここにたどり着いたのが13時。

あまり補給もしていなかったので、レストランに入ってゆっくりと休むことにした。

 

摩耶山より六甲山頂までは極端な上り坂はなくなり舗装路が多くなる。

とはいえ距離が長い。出来るだけ走ろうとはしてみたがかなり辛い。そして路面が凍結していて下りは走れなかった。

無理せず早歩きペースで進む。

 

六甲最高峰についたのは15時10分頃。

ここまでくればもう下るだけだが、いちばん日の短い時季なだけに17時くらいには山の中は真っ暗になる。

ライトは必要十分に持っているが、なんとかライトを使わない時間に下山すべくペースを上げた。

 

大平山までが遠く感じたが、その後は雪もなくなったので一気に駆け下りた。

塩尾寺に着いたのが17時10分頃。

宝塚の駅までは舗装路を若干迷いながらも17時50分頃に到着した。

結果的に手元のガーミンの時計の計測で10時間12分。総距離46km・獲得標高3,000mだった。

公称よりかなり短いが山中の水平移動距離だとこんなものなのだろう。

 

宝塚の駅裏の鉄板焼き屋の生ビールとねぎ焼きがとてつもなく美味かった。

賤ヶ岳古戦場より玄蕃尾城へ

賤ヶ岳の古戦場跡をランで走った。

6時台の電車に乗り9時少し前に木ノ本駅に到着し、賤ヶ岳リフトへ走る。

にわかには信じられないが、秀吉軍は岐阜からの52キロの道を5時間で大返ししたといわれる。

秀吉軍が駈け上ったのは黒田家発祥ともいわれる黒田観音寺の裏からだというから大岩山へ上ったのだろう。

一番の激戦地は中川清秀が討たれた大岩山。

高山右近羽柴秀長の陣へ逃げ、黒田孝高隊も壊滅寸前であったという。大岩山の合戦ともいうべきなのかもしれない。

賤ヶ岳砦は秀吉軍の守将桑山重晴が盛政への明け渡しを引き延ばし、結果丹羽長秀の援軍と合流して佐久間盛政を余呉湖へ追い落とした。

秀吉軍が勝ったのが賤ヶ岳だった。

 

リフト脇から賤ヶ岳へ上る。なかなかの谷だが九十九折れになっていて傾斜はそれほどでもない。

山頂からの展望は見事。琵琶湖が美しく正面を向くと余呉湖も手に取るように見える。向かって左手の余呉湖畔から佐久間軍は中入りして、最終的には追い落とされた。

尾根を北に進む。

中川清秀の首を洗ったと伝わる涸れ果てた首洗いの池を越えて大岩山へ。そこにある清秀の墓は江戸期に大名となった中川家が造ったもの。

さらに尾根を進んでを余呉駅方面へ下る。黒田孝高の陣地跡は発見できなかったがこの道中のいずれかにあったはずだ。ここが持ち堪えたことによって秀吉の大返しが功を奏した。

 

余呉からはひたすらに北上。余呉湖東岸の小さな平野部が本来の決戦地であるべき場所であったのだろう。

毛受兄弟は尾張春日井の人。勝家に仕え、彼を逃がすために殿軍となって討死した。

彼らの墓から行市山を目指して上る。この上りがとても長い。

金森長近の林谷山砦。前田利家の別所山砦。山頂の佐久間盛政の行市山砦と上っていく。

 

佐久間盛政の撤退は損害を出しながらもそれなりに上手くいっていたのだが、前田利家が別所山砦より撤退したことで孤立することになる。結果的にそれが柴田軍全体の崩壊につながった。

それにしてもこれほどまでの高所に砦をつくったというのは驚きではある。

 

山頂には雪。

これより往時の軍道であった尾根道を走って玄蕃尾城址に向かう。

はじめは藪漕ぎを強いられたが、それなりにきれいな道となった。そこここに人為的に造ったであろうくぼみのようなものがあり伝令所のような雰囲気があった。

 

この尾根も長いのだが突然道が落ち込み刀根坂の天辺であるの久々坂峠に出る。

この道は古代より若狭と近江をつなぐ重要路である。朝倉義景姉川で敗北したあとにこの道を逃げた。

その要衝を押さえるのが玄蕃尾城。土塁のみの質素な造りではあるが連結した虎口や深い堀切。大きな郭も備えた実戦的な城跡だった。

刀根坂を近江側へ下り、旧北国街道を南へ走る。

そして木之本駅着。合計で33キロ走った。

寒かったが缶ビールがとても美味しかった。