二千九百四十五の峠

伊能忠敬下総国佐原村における名主の人。

50歳のときに天文学者高橋至時に師事する。このとき高橋は31歳。

暦学や天体観測を学ぶうちに「地球の直径」を知りたいという欲求に駆られ、子午線1度の正確な距離を算出したいと考えるようになる。

蝦夷地と江戸の2点の距離とそこから北極星を測ること」

で地球の直径を算出しようとする。

蝦夷地へ行くには幕府の特別な許可が必要だった。伊能らは蝦夷地へゆくために測量を目的とした渡航を願い出る。蝦夷地沿岸にロシアの脅威が迫っていることを認識していた幕府は正確な地図の必要性を感じており渡航の許しを出す。

結果的に伊能は緯度1度を28.2里であると導き出し、「副産物」として大日本沿海興地全図を作成した。

伊能は江戸期に多くいた「市井の趣味人」であった。その手の天才的というよりは多分に偏執的な趣味人は特に蘭学者に多いように思われるが、算術や経済学や本草学など様々である。つい先日も日本各地の植物を収集していた高島藩士の押し花コレクションが発見されたと話題になっていた。

 

ところで先日読了した「全国2945峠を歩く」という本の著者。

現代の人であり元建築士。地盤や断層を調べるうちに峠には断層が露出していて観察しやすいことや江戸期以前の峠へ通じるみちが風水害にとても強いことに気づき、定年退職後約10年で日本中の2945個の峠を踏破している。

断層や道のつき方のこともさることながら、そのひとつひとつの歴史や伝承や役割を丹念に調べていた。

この本を読むことで峠のこともさることながら、伊能をはじめとした江戸期の趣味人というものを考えさせられた。

奈良高畑より糸のみほとけ展

国宝の綴織當麻曼荼羅図の修理が成ったとのことで、繍仏の特別展を開催している奈良国立博物館へ行くことにした。

 

まずは山の辺の道を辿り白毫寺へ。山門と破れ築地が夏の空の下にとても映える。高円山の端ではあるが大和盆地を一望することができ、天智天皇の子の志貴皇子の山荘があったとされる景勝の地である。志貴皇子の万葉の歌碑もあった。戦国期の兵火で焼かれ、江戸期に再興された。宝物殿では間近で仏様を見ることが出来る。本尊の阿弥陀如来像はなかなか人間味のあるお顔をされてる。閻魔大王像の脇侍である司命・司録半跏像の姿勢と表情に躍動感と迫力が感じられた。

 

北へ向かい新薬師寺へ。新薬師寺とは「新しい」薬師寺でという意味ではない。霊験「新たか」な薬師寺という意味である。

なんどもなんども見ているが、毎回十二神将像にはその存在感に圧倒される。あまりに暑かったので休憩がてらに奥の座敷で涼みながら十二神将像の本来の彩色シミュレーションのビデオを観賞。本来の彩色を想像することは仏像拝観の楽しみの一つでもあるのだが、特に天平の極彩色を想像するのはとても楽しい。

 

そして奈良国立博物館へ。

聖徳太子を偲んだ天寿国繍帳は返し縫というそれほど技術的に高度なものを使っているとは思えないのだが、飛鳥時代の彩色や刺繍がいろも褪せずに綺麗なのに対し、鎌倉期に補修した部分の傷みが激しいというところに驚いた。また亀卜などとも関係があるのか亀甲模様に銘文を入れ、ちりばめているのはおもしろい。

国宝綴織當麻曼荼羅折口信夫死者の書では非業の最期をとげた大津皇子の霊をなぐさめるべく中将姫が一夜で織り上げたとされる。この物語がとても好きで長年一度はみてみたいと思っていた。

曼荼羅とはいうものの密教における両界曼荼羅ではなく釈迦の観無量寿経の内容を図示しているものであり、浄土信仰のはしりともいえる内容である。また鎌倉期にはすでに傷みがあったようで、それ以降多くの転写本がつくられた。

修復なったとはいえ現物をみていると細部についてはよくわからない。だが、備え付けのタブレット端末で細部を確認できるようになっており、ありがたかった。

それにしても大きな曼荼羅図である。とても一夜で織り上げられるようなものではないことはわかる。技術的にもかなり高度なものであるらしく当時の日本で製作したとは考えにくく唐よりの舶来品であったようである。

その他の繍仏の絵柄としては釈迦三尊と阿弥陀三尊を対にしたものや、釈迦如来阿弥陀如来を一枚に描いた二尊のものなどが目立った。これらも浄土信仰を基に釈迦が送り出して阿弥陀が迎え入れるというところから多くつくられたデザインである。逆に薬師如来の繍仏はあまりなかった。

繍仏には故人の髪を織り込むことも多い。もちろん全てを髪で製作することはできないが、仏を梵字で表す印の部分や仏の頭頂部などに織り込み供養としている。おもしろかったのは仏の頭部と袈裟に織り込んだものがあるのだが、その髪色は日本人離れした美しい茶色だった。

 

仏像館へもゆく。

勝手なものでいつもは流しながらみている青銅器コレクションが、韓非子項羽と劉邦を読んだ直後のせいかとてもおもしろい。

学生時代から見ていた降三世明王金剛寺へ里帰りしてしまったのは寂しい。

いつも目を奪われるのが仏像館の回廊で最後の部屋にある如意輪観音坐像。鎌倉期の作。30センチほどの高さで小さく重文でもないのだが、造形、表情、バランスすべてが整っていて美しい。如意輪観音のふくよかな姿が単に自分の好みなのだけかもしれないが。

 

帰路にふと目をやると飛火野でカップルが鹿に囲まれながら結婚式の写真撮影をしていた。40度近い炎天下の草原でウエディングドレスと鹿の群。カメラマン共々たいへんそうだが、当事者には忘れることのない写真となるように思った。

韓非子

つらつらと項羽と劉邦を読んでいて諸子百家。とくに法家についてよくわかっていなかったので韓非子の入門本の頁をめくってみた。

 

春秋戦国時代諸子百家とよばれる学者・思想家が雲のように群がり出てくる。

後世の司馬談はそれを陰陽家儒家墨家・法家・名家・道家と六家に分類した。

 

秦帝国というものは法家思想による統治をわずかな期間で地方のすみずみにまで浸透させた。これは李斯によるところが大きい。

史記にはその李斯をして韓非子には及ばないと自認していたとある。

 

韓非子は韓の王族の庶子であった。

本名は韓非。尊称は韓子であるべきだが、宋代に同名の大詩人がおりフルネームに尊称である子をつけ韓非子と呼ばれる。

秦という大国に接する韓はそれこそ吹けば飛ぶような存在であり、事実上秦の属国ともいえる状態であった。この危機感が韓非子を学問に向かわせる。

彼は儒家である荀子に学ぶ。基本的な思想は同じであるがおおまかにいうと荀子は人の徳化によって解決を図るが、韓非子は法の統制によっての解決を目指している。出口だけが違うのである。

孔子は人間には基本的に善と悪が内包されていてその善の部分を伸ばすことを目指す。荀子はそれに比すると性悪説を唱え道徳による徳化を目指す。韓非子は人間の本性を悪ととらえていないが、欲望のままに動くのが人間本来の姿と規程している。それを「利」という概念で説明しようとしている。なにが善なのかは誰にとっての善なのかであり、それは誰にとっての利であるかということである。道徳や倫理より根源的なところで人の行動を決めているのは利であるとしている。この「利」の人間観というところは特に備内篇に著されている。

 

彼には吃音の癖があったために喋ることについては苦手としていたが、書を著すことについては優れていた。

 

韓の国では重用されなかったため、彼は自身の智をまとめあげたものを著す。

それを読んだ秦王政は彼に深く敬服していたという。

 

秦は韓の完全な併合を指示し、その弁明のために韓非子が秦に派遣される。

その際、秦王政は韓非子を登用しようとしたが、李斯は自分の地位が韓非子にとって代わられるのを危惧し讒言して牢に繋がれる。

韓非子は李斯に渡された毒をあおって獄中死する。

説難を著したにもかかわらず秦王を説きに行ったことで死んでしまう。史記において司馬遷はそれを悲しんでいる。

 

秦帝国始皇帝の死後、音をたてて崩れていく。

内部崩壊というところもあるが、結局のところ流民の親玉ともいうべき項羽と劉邦たちが儒家老荘の徒をブレーンとして法家主義を倒すという構図となり、韓非子が著し李斯が実践した法家主義は崩壊する。

 

この時代に興った多様な思想や学問の土台ともいえる知への欲求のようなものはこの後次第に衰弱してゆく。

その後の中国人とは別の民族ではないのかとも思えてしまう。

八十里越

継之助の担架は八十里越を越えて行く。左足はすでに腐敗し臭気を放った。それにしてもこの長大さは、どうであろう。樹海は眼下にあり、道は天空に連なってゆく。

「八十里こしぬけ武士の越す峠」と継之助はわが姿を自嘲した。

司馬遼太郎「峠」より

 

八十里越は長岡より河井継之助が敗走したみちである。

幕末の内乱で最も熾烈であったともいわれる北越戦争。長岡藩家老であり軍事総督でもあった河井継之助は八丁沖の渡渉作戦で長岡城を奪還するも直後に左足を撃たれ、城は再び官軍に奪われる。

継之助は担架に乗せられながら八十里越を越えて会津へ向かうも只見の塩沢村において落命する。

一里が十里にも感じられるほどの厳しい道であり、会津と越後を結ぶ「塩の道」として明治までは重要な街道であったが、南の六十里越、北の磐越西線の整備により廃れた。

 

継之助の終焉の地はダム工事によって水底へ沈んだが、建物は河井継之助記念館の中に移築されている。

その終焉の風景に彼の凄味を感じる。

 

「寅や」と、外山脩造(寅太)にいったのも、そのときであった。

「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える」

司馬遼太郎「峠」より

 

継之助は自分自身である武士をもはやなくなるべき遺物であると観念している。彼に商人の道を薦められた外山脩造は日本銀行設立に携わり、関西有数の財界人となる。阪神タイガースは彼の幼名にちなんでいるといわれる。

八十里越と言う地形もさることながら、武士という人間の結晶体は幕末という時代に完成し、その後はなにごともなかったかのように消えてなくなっていった。それは峠を上り、下っていくことに似ている。

 

「一忍以て百勇を支うべし。一静以て百動を制すべし」

継之助の書である。長岡藩が目指した姿はまさしくこれだったのだろう。

ただ、結果はそうはならなかった。

北越戦争は民衆にも塗炭の苦しみをあたえ、維新後に継之助の墓を鞭打つ者があとを絶たなかったという。

少し極端かもしれないが、彼がいなければ山本五十六も世に出ず長岡の空襲もなかったかもしれない。ただ彼が不世出の英雄であったことは間違いがない。

司馬遼太郎は継之助を題材にした短編をこう締めくくっている。

「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」

司馬遼太郎「英雄児」より

 

「山水相応蒼龍窟」

河井継之助記念館にある司馬遼太郎揮毫の書である。記念館の駐車場から望む只見川の青い水面はまさに蒼龍が眠るにふさわしい情景である。

夏の暑い盛りの空と川はとても鮮やかに青かった。

当尾の里から南都へ

雨上がりの奈良を歩く。

大和国の北端。当尾の里とよばれる木津川南岸の山中に浄瑠璃寺岩船寺がある。

山中とはいえすぐ対岸の恭仁京の北には海住山寺もあり、天平華やかなりし時代には仏に帰依する貴族や学僧などの往来も多かった地域だったのだろう。

浄瑠璃寺本堂の阿弥陀如来は九品往生の考えによって九体造られている。そのため九体寺とも。ここのものは基本的には同じ像だが、東京の九品仏浄真寺はそれぞれ表情が違う。

本堂の前には広大な池があり、池と庭園越しに望む三重塔が美しい。阿弥陀如来のある本堂の前に広大な池を配置するというのは浄土を表現している。宇治の平等院や平泉の毛越寺などと同じである。

特別開扉の吉祥天如像はふくよかでユーモラスな表情だった。

 

浄瑠璃寺から岩船寺までは石仏のみちを辿る。山というのは三輪山そのものが信仰の対象であったように仏教伝来以前の神であった。山を信仰するのは本来は遊牧民のものであり、仏教伝来より遥かに前に泰山信仰のようなかたちで日本に入ってきていたのだろう。その山中に多くの磨崖仏が彫られているのは本地垂迹のはしりなのではないかと考えた。

岩船寺は山中の窪地に造られている。紫陽花にはすこし早かったが、窪地の縁から見下ろす三重塔と緑のコントラストが鮮やかである。特別開扉の弁才天像などを拝観。 この辺りの山寺の仏像は明王蔵王権現など密教修験道が多分に入り混じっていてとても面白い。

 

奈良盆地へ下りて奈良国立博物館へ。春日大社信仰の特別展を拝見する。

春日大社といえば本地垂迹の総本山ともいえる神社。春日曼荼羅やら鹿曼荼羅など、もはやなんでもありのような印象をうける。よくいえば日本人の信仰や教義に対する涙ぐましい工夫や努力ともとれますが、ええかげんさともとることができる。個人的にはこのような劇画風の信仰は理屈っぽくなくてとても好きではある。

島原・壬生界隈

京の島原・壬生界隈を散歩。

京都卸売市場の横は千本通り。ここは平安京ができたころの朱雀大路であった。

有名な角屋はそこに面した場所にある。寛永18年(1641年)に新町五条下ルから島原へ移された。島原という一大遊郭江戸幕府の意向なのかこの頃に形作られる。

久坂玄瑞の密議の場所として石柱が立っていたが、興味を持ったのはここが東鴻臚館跡地であるということ。

ここは唐ではなく渤海国使節を饗応した場所である。鴻臚館は渤海国の滅亡とともに衰え、鎌倉期には廃止された。

その後は島原大門へ。以前に見たときには大きく立派な門であるイメージが強かったが、あらためて目にすると綺麗な造りではあるがこじんまりとしている。

色街はどこでもそうなのだが、人の出入りを監視するのにあまり大きな門では用をなさないのかもしれない。

輪違屋の前を北へのぼって壬生方面へ。それにしても新撰組の屯所であった八木邸と島原は近い。

壬生寺も十数年ぶりに訪れてみるとかなり綺麗になっている印象をうけた。

旧前川邸・八木邸の雰囲気は好きだ。

車やバイクのエンジン音がひっきりなしに響くが、一瞬の静寂のなかで新撰組の者どもの声や竹刀の音が聞こえてきそうな気になる。

悪因悪果

40年近く生きてきていろいろな人を見ていたつもりではいたが「悪人」というものを7年前にはじめて見た。それはそれで興味深かったが近ごろ自滅した。

信長は叡山を焼いたとき「悪は滅びた」と呟いたといわれるが、悪因悪果というものを目の当たりにする思いだ。